2023年7月28日公開
苔の花言葉にまつわる物語
Instagramでの投稿で大反響を呼んだストーリーをご紹介します
ストーリー
苔の花言葉
苔の花言葉
みなさん、苔にも花言葉があることをご存知だろうか?
西予苔園にまつわる、苔の花言葉につながるストーリーをご紹介したい。
私が苔栽培を始めるとき、まわりの色々な人から、色々なことを言われた。
苔なんて金になるのか?
都会では売れるかわからんが田舎じゃ無理だ
野菜作った方が儲かるぞ?
山にいくらでも生えてるのに、わざわざ栽培する必要ないだろう?
当然すぐにはお金にならず、なんとか収入を得ようと苔テラリウム作品を作って販売しようと思い、ある産直市場に販売をお願いし、販売始めた頃。
「他の販売者さんの迷惑になるからあまり場所を取らないでくれ」
なんて、5個作品を並べただけで、お店の人に言われたりして。
苔テラリウム作品を産直で販売して1ヶ月ほど経って、販売していた作品が万引き被害に遭った際には、
「警察沙汰にすると面倒だし体裁が悪いから、警察に言うなら今後は販売させない」
と、産直の取締役の責任者から言われたりもした。
その産直市場とは、もう二度と取引することはなくなったが…。
まだまだ規模は小さいけれど、少しずつ苔の魅力が広がり、今では全国から西予苔園の苔をご注文をいただけるようになった。規模的にはまだまだ小さいが、なんとかギリギリ生活できるようにはなってきたかな、という感じ。
色々なきっかけがあったにせよ、会社経営していたのに急に地元にUターンしてきて、端から見ると唐突に苔栽培をはじめた形となり、「なんで苔?」と周囲をびっくりさせながらの苔栽培がスタートした訳だが、色々人に笑われ、今でもきっと「こけみざわ??なんだそれ笑」と言ってる人もいるだろう。
まぁ笑ってもらえるなら、それはそれで良いのだが。
そんな感じで急にはじめた苔栽培だったが、自分でもお金になるか全く自信も確信もなかった頃から、母は応援してくれて、足腰も悪いのに苔の植え付け作業も手伝ってくれた。
「時間はかかるかもしれないけど、少しずつでもお金になったらいいね」
と言いながら、寒さの一番厳しい2月の早朝から、苔栽培を取り組み始めたばかりの畑に来てくれて、苔の播種を手伝ってくれたり、真夏の一番暑い時期には、時間のあるときに種ゴケになる苔の種ゴケ処理を、庭先で汗だくになりながら1日中やってくれた。
そこから3年。ただがむしゃらにやってきた結果、3年でようやくここまできた。
その3年の間に、母は少し認知症の症状が出始めてしまい、今年(2023年)の1月に、自宅で沸騰したやかんを持ったまま転倒し、全身大やけどを負うアクシデントに見舞われる。
緊急搬送された救急病院では、「生存率50%」と医師に告げられ、一時は死も覚悟した状態。その後なんとか一命は取り留めたものの、それから歩くこともままならず、現在は要介護4という状態になり、リハビリを頑張りながら、施設に入ることを検討しているような状態になっている。
最近、私のことを新聞に掲載して頂き、テレビで取り上げて頂いたりして、母もとても喜んでくれている。
病院のスタッフの方々みんなに自慢してくれているようだ。
私にも「良い冥土の土産になった」と言っているが、「まだ冥土に行くには早いよ」と返しておいた。
苔の花言葉は「母の愛」だそうだ。
私が苔栽培をやりはじめた頃から、ただただ応援してくれていた母の姿は、まさに苔の花言葉そのもののように思う。
まだまだ未熟な苔農家、苔作家だが、母がまだ元気なうちに、苔農家・苔作家として成長し、笑われたりしながらも、より多くの人に苔の魅力を伝えられるようになって、母の冥土の土産を1つでも多く増やせればいいなと思う。
ここまでが、Instagramで投稿した「苔の花言葉」の投稿。少し加筆してご紹介した。
このような投稿をInstagramでしたところ、多くの反響を頂いた。コメントでも「思わず泣いてしまった」という方や、直接お会いする方にも「あの投稿を見て泣いてしまった」という方も多くいらっしゃって、いろいろな方を泣かせてしまったのだなと申し訳ない思いにもなったが、私にとって苔の花言葉というと、このストーリーが私にとっての苔の花言葉となっている。
さらに少しだけ深掘りしたいと思う。
「苔の花言葉は母の愛」と、言うのは簡単だが
いきなり苔栽培をはじめた息子を見て、母も色々と思うことはあっただろうが、そんなことは一言も口に出さず、何の打算もなく、いきなり苔栽培を始めた息子をただただ応援してくれた。
応援するだけでなく、私自身でも寒くて辛い時期に、一緒になって苔の播種を手伝ってくれた。真夏の炎天下の中で、大汗をかきながらもホコリまみれになって種ゴケ処理をして種ゴケを作ってくれた。
今もまだ病院に入院中の母だが、自分がテレビに放映されると聞くと、放映日と時間を忘れないようにメモに書いてくれていた。その後も操作もおぼつかなくなったスマホの電話帳から、片っ端から知り合いに電話して、「自分の息子がテレビに映るから見てほしい」と、電話してくれているようだった。
私の苔農家人生のスタートのときから支えてくれて、自身が認知症と診断されてからも、なんとか支えようとしてくれるその母の姿を通じて、私は苔の花言葉の意味を深く理解することとなった。苔に携わるものとして、母の背中が苔の花言葉の意味を、深く教えてくれた。
ゆえに私にとって苔の花言葉は、やすやすと使える言葉ではなくなった。
苔を販売する側からすると、母の日にちなんで苔関連商品を苔の花言葉に乗せてマーケティングをするにはちょうど良い訴求になるだろう。
「苔の花言葉は母の愛。母の日に苔を贈りませんか?」
そう言うのは簡単だ。だが、少なくとも私の感覚からすると、自身の売上をわずかばかり獲得するために利用できるような軽々しい言葉では無い。
だから私は、母の日に時節のマーケティング活動などは一切行わないと決めている。私にとって母の日とは、このストーリーでお伝えした通りで、そのような母を大切に想う日であって、自分の苔を売るために人様の母の日にあつかましく土足で踏み入れるようなことはしたくないと思うようになった。
母の日は、誰にとっても自身の母を想う日であって欲しいし、その1日を大切に味わってほしいと願っている。
私にとって母の日がそうであるように、父の日やその他の時節のタイミングに、ただ苔を乗っけただけの軽々しい販促活動など行うことはしないと決めている。他の人にとっても、その1日はきっと誰かにとっての大切な日なのだから、やはり土足で踏み込むような真似はしたくない。
どの日でも同じように、私はただお客様と苔に誠心誠意向き合って日々を過ごしているし、少し特別な日であろうが、私はどの日であっても変わらず、良い苔をお客様に届けたいと思っている。
その上で、お客様がその日に苔を選んで頂けるということであれば、とても嬉しいことだし、私はいつも同じ気持ちで、何の日だろうが関係なく毎日特別な気持ちで心を込めてご注文の商品を発送させて頂くことしかできないので、何の日であろうとその態度以上に何も特別なことは無い。
例外的に、オンラインストアサービスを利用しているBASE負担のクーポンや、自分がやりたいと純粋に思うセールなどは、時節のタイミングに限らず、好きなタイミングで行うことにしている。
人の気持ちがわかるということ
私が苔栽培をはじめた当初、色々と言いたいことを言ってきた人はいたが、何をやっていても人の表面だけを見て、そのことを広く語れる知見も知識も持ち合わせないのに、自分の狭い世界の中から言いたいことを言いたいだけの人はいる。
また、表面的には応援しているような雰囲気を出す人もいるが、打算的な意図が見え隠れする人も多い。
一方、何の打算もなくただただ応援する、そんな人もいる。
母が私に見せてくれたように、その人の可能性を、何の打算もなくただ応援する、そんな姿勢こそが「母の愛」という言葉に含まれている意味ではないだろうか。
それは、つまり単純に家族だからという理由で家族親族を大切に思う気持ちというよりは、もっと広義の意味で「人の気持ちが自分のことのようにわかる」ということでもあるのではないだろうか。
「母の愛」というのは、家族に限定した感情だけでなく、あらゆる人に対しても、その人の気持ちが自分のことのようにわかるという、そういう意味の表現として「母の愛」と例えられる優しい感情のことを指すものだと思っている。
大切な人だと思える人のことを、まるで自分のことのように思う、または自分の家族のことのように思う気持ちとも言える。人の気持ちがわかるというのは、まさにそのような感情だろう。そんな優しさを持つ人になるにはどうすれば良いのだろう。それは豊かな情操をはぐくむということなんだろうと思う。
では、豊かな情操をはくぐむにはどうすれば良いのだろう。私は、苔という植物を愛でることが、豊かな情操をはぐくむのにはとても良いと思っている。
苔を愛でるということ、苔を楽しむということは、すなわち苔を美しいと感じる心を育てることだと私は考えている。
苔を美しいと感じる感性が育てば、苔以外の小さな植物もまた美しいと感じる感性がはぐくまれるはずだ。その感性の発達が、人の気持ちがわかるというような情操を育てることなのではないかと思っている。
苔には、人の気持ちを深く理解することができるような情操を養う魅力がある。
日々の生活の中に、気づけばどこにでも苔という存在はある。だけども、苔という植物を意識するまでは、そのような小さな植物の存在すら目に入ってこなかった。
苔という植物を綺麗だと思うようになってからは、生活の中、自然の中に様々な苔が存在しているということに気づく。そして、苔辞典でいくら調べても知らない苔がたくさんあるのだから驚く。
そうしていくうちに、苔植物のことはもちろん、苔と近い場所で生きている様々な植物、今までは名前も知らなかったような山野草や草花の存在にも気づく。そして、それらは、ただ美しい。私達の足元には、こんなに美しい山野草や草花が生きていたのだと気づくと、なんでもなかった風景に一気に色が入っていくような感覚で、今まで見た風景を新鮮な気持ちで捉え直すことができる。
このような意識の変遷が、きっと情緒という感性を磨くことであり、情操が発達していく過程なのだろうと、今では実感するところだ。
そのような情操をはぐくむことができれば、作る作品も今よりもさらに味わいが増すのではないかと思うし、苔の細やかな繊細な表情をよりうまく引き出すことができるようになるのではと思う。
このようなことを思っていると、ことさら苔の花言葉というのは奥が深いものだと、私自身実感している。それはつまり、苔の魅力の奥深さでもあると思う。
私は苔栽培を通じて、ひとつ思うことがある。
私が苔を育てているのではなく、苔に私が育てられているということだ。苔はものを言わないし、こうしたらうまく育つなんて、教えてはくれないのだが、最近は苔の細やかな表情が少しわかるようになってきた。
苔が傷んだりトラブルになる前に、なんとなくこのままでは調子が悪くなりそうだということや、何をどうしたらさらに良くなるだろうということが、苔の表情からわかるようになった。
苔の表情を読みながら苔を育てていると、私が苔を育てているのではなく、苔に育てられてるのは私なんだと気付いた瞬間があった。苔や自然環境から苔栽培を学ぶことで、実は私が苔農家として苔に育てられているのだと思うようになった。
母のお世話についても、同じことが言える。
今では母の病状で様々な病院にかからなければいけないため、母の通院の度に私が送迎していて、結構な頻度で母の通院の付き添いをしている。かなり時間を取られたりもして大変だと思うこともあるが、私が母のお世話をしているのではなく、母がまだ元気なうちに、私が母のお世話をさせてもらっているのだと考えるようになった。
母のお世話を通じて、また少しは人の気持ちが少しはわかるようになるのではないかと思うのと、このように親孝行できる時間もまた、貴重な時間なのだと思うようになった。母のお世話を通じて、人の気持ちを理解するということを学んでいるように思うこともある。
子供に対しても同じく思う。
私が子供を育てているのではなく、子供の成長を支えることを通じて、親として自分が育てられているのだなと。子供と遊べる時間は限られているというが、子供と遊んでる時間は、私が子供を遊ばせているのではなく、子供に遊んでもらっているのだなぁと、ふと思う。
自分の1歳7ヶ月の娘の手を引くとき、自分が幼かった頃の情景に思いを馳せる。記憶にも残っていないような幼い頃、母は私の手を取って歩いてくれていたのだなと。
そんなことを思いながら、今は私が母の手を引いている。色々なことを想い巡らせながら母のお世話をしている時間は、そんなに悪い時間ではない。
私自身もまだ未熟な人間だが、人の気持ちが今よりも少しは理解できるようになれば、また苔の魅力も少しは理解できるようになるだろう。
母のお世話をすること、子のお世話をすること、苔のお世話をすること。この3つには通じるものがある。
苔の花言葉、「母の愛」。それは人の気持ちがわかるということであり、人の気持ちを理解するために、自分に関わる生活の中から、学ぶべきことがたくさんあるということの気づきでもある。苔を愛でることもまた、情操をはぐくむために大きな学びになる。私の今の生活の全てが、ひとつにつながる。
そう感じられるということこそがまさに、母のような大きな愛なのではないだろうか。